
ソチ五輪イヤーは、シーズン全体が〝TOMOKAゾーン〟だった
2014年ソチ(ロシア)五輪スノーボード女子パラレル大回転。竹内は予選から決勝まで、10度もコースをリフトで登った。どのレースも、スタートゲートを飛び出すと、全身を眼下にできる限り傾け、加速した。チャンスは4年に1度しか巡ってこない。1日に行われる10回のレースのうち、8回目までの滑走で、1度でもボードのコントロールを誤れば、その時点でメダルは遠のく。極限の緊張感、周囲のプレッシャー…。あらゆるマイナス要素を克服した先に、銀メダルが待っていた。
竹内 「通常、アスリートのゾーンというのは『ここは負けられない』というような勝負どころでピンポイントで訪れる気がしますけど、私の場合、ソチ五輪の時は、シーズン全体がゾーンのような感じでした(笑)オリンピックの時は、プラスアルファで雪質、コースセットなど、全ての条件が味方についてくれましたね。」
アイスバーンは硬く凍り、斜面の攻略には高い技術が要求された。W杯でも結果を残してきた経験豊富な竹内には、うってつけのコースだった。
竹内 「女子は(コースが)難しくなればなるほど、ビビっちゃう選手が多いんです。トップ選手と下位の選手の差がつきやすいんですね。逆に、コースが簡単になればなるほど差はつきません。テクニカルで、硬くて、ほかの女子がこわがるようなところ(コース)だったのが、(ソチは)すごく良かったですね。」
気付いたら五輪?! 早過ぎたソルトレークシティー五輪出場
もちろん竹内に、若く、レースでも下位だったころの失敗や経験があったからこそ、4回目の五輪で結果を出せた。クラーク記念国際高校3年生で初出場したソルトレークシティ五輪では、予選22位で決勝進出を逃した。続くトリノは9位。2010年のバンクーバーは13位(※記録はいずれもパラレル大回転)だった。メダルはおろか、入賞すら手が届かなかった。
竹内 「ソルトレークシティの時の私に、オリンピックはまだ早かったと思います。場違いというか、(オリンピックの)意味がわかってなかったですね。「オリンピックに出たい」と口では言っていましたけど(笑)ワールドカップ(W杯)より下部の欧州カップやネイションズカップなど、いろんな規模の大会を追い続けて、気づいたらオリンピックに来ちゃった、みたいな感じでした。スタートに立った瞬間に、会場の盛り上がりが下(ゴール)から湧き上がってきて、その歓声に完全に飲まれました。「何かちがうな。私はまだここに来る準備ができていない」というのはわかりました。」
絶好調で迎えたソチ大会でも、1週間前には緊張と重圧が襲ってきた。しかし、女子高生だった12年前、想像もしなかった大歓声に押しつぶされた時とは、全く違う種類のプレッシャーだった。
竹内 「ソチの時は、『やってくるんだな、オリンピックが。待ちに待った』という感じでした。調子も前後のW杯の成績も全部良かった。「メダルをとれる」という自信もありました。自信があったから、調子が悪くなる前に(五輪が)早く来て欲しい。(調子の)波にうまくはまってほしいなと。ケガなく本番を迎えることが大事ですし、「インフルエンザにかからないだろうか」といったことが不安になり、プレッシャーになりました。」
自分の弱さも良い意味で受け入れて、フタをした
ボーダーが1人滑るたびに、アイスバーンの溝は増える。板が溝にはまってコントロールを失えば、4年間のすべてが終わる。最後の10回目(決勝2本目)こそ惜しくも転倒したが、9回目までは立ったままゴールに飛び込んだ。0.01秒を争う極限の戦い。「緊張はしましたよ。全部」と振り返る。それでも「楽しめましたね。多分映像を見ても楽しんで滑っているのが伝わってくると思う」という。実際、当時の映像を見返すと、スタート前に口元が緩んでいると感じるレースがある。レースとレースの合間の休み時間には、FACEBOOKで日本国内の盛り上がりを確認するほどの余裕が、竹内にはあった。「思わず『いいね!』したいぐらい」(竹内)の精神状態だったという。
竹内 「今の状況を全部受け止めたんですね。風邪をひこうが、ケガをしようが、起こることすべてのことにビックリしないと決めました。壁にぶつかる、苦しい、うまくいかない、プレッシャーに弱い…すべてをひっくるめて自分だから、弱さも良い意味で受け入れて、フタをするみたいな感じです。確かに「調子悪いな」とか、そこに向き合うことも大事だけど、時には見て見ぬふりをすることも大事だと思います。」
極大のプレッシャーのある五輪に、私はとりつかれた
心が押しつぶされそうになるほどの緊張、楽しみ、喜び、「4年間やってきたことを表現したい」(竹内選手)という願い…。アスリートが抱くあらゆる思いと、世界中の視線が、オリンピックには集まる。「極大のプレッシャーがそこにはある。でも私はそのオリンピックにとりつかれた」と、竹内は微笑む。様々なリスクがあっても、ネガティブな感情が沸き起こっても、完調とはとても言えないコンディションでも、マイナスになりそうなことは、胸の奥にしまいこんだり、ポジティブに変換したりしながら、5度の大舞台を大いに楽しんできた。
竹内 「365日スノーボードのために過ごして、できる努力はすべてしてきた自信があるし、これ以上は手をつくせないから、(本番までに何かあっても)まあ仕方ないよな、という開き直りもありましたね。ソチ五輪のあと、平昌五輪の前に、左ヒザ前十字靱帯(じんたい)を断裂した時も、『なんで私が』とは思いました。でも『なんで』を追求してしまうと苦しくなる一方だから、『神様が休みなさいと言って、時間をくれているんだな』とか、『引退したらケガも何もしないで取ったメダリストよりもケガについて語れるし、引き出しが一つ増えるんだな、仕事につながるな』と考えるんですね。実際に前十字を切ったことで、ケガについての講演もさせてもらっていますよ(笑)。」
目標があることは、生きていく上で本当に楽
2018年の平昌五輪が終わって2年が過ぎても、竹内はまだ進退について決めかねていた。自ら「当時の状態では上出来」という5位に終わったレースの直後には「もう2度とないんだな」という感傷がこみ上げるほど、〝引退〟に気持ちが傾いていた。4年の間に大怪我も、つらいリハビリも経験した。「なんで銀メダルを花道にして、ソチでやめなかったんだろう」という後悔の念すらつきまとっていた。平昌五輪直前のW杯の年間順位は、メダルには程遠い20位そこそこ。「智香はオリンピックに強いから大丈夫だよ」と、レースのたびに慰められるほど悪い状態だった。ところが本番になると、メダルこそ届かなかったが、十分に「惜敗」といえるだけの結果が残った。さらに、「99.99%最後」と決めていたはずの五輪が終わって帰国すると、すかさず「次は6回目だね!」という声が届いた。「引退」と軽々しく言える状況ではなかった。
竹内 「ずっと調子が悪かったので、他の選手に言われたのもそうですが、自分でも「オリンピックでも世界選手権でもメダルを取ってきているし、私は大舞台に強い」って、何ヶ月も前から言い聞かせてました。それが見て見ぬふりです。調子が悪いことに、見事にフタをしました(笑)。その上で、帰国して挨拶回りをしたり、イベントに参加させてもらったりしていると、「続けてほしい」という声があり…。そのうちに自分でも「もう1回出られるでしょ」と思ってしまったり(笑)。ただ、それは完全に自分の気持ちではないですし、『勢いで続けちゃうのはいけないな』、という思いもあるので、少し(競技から)距離を置く時間も必要でした。『オリンピックで金メダルを取りたい』という目標に代わる目標があるか?と言われると、なかなか難しい面もある。目標があるってことは、生きていく上で『本当に楽なんだな』と思います。」
選択肢があることで、本当にやりたいことを極められる
平昌五輪の翌シーズンも、完全には競技から離れなかった。オーストリアやスイスの友人達にも連絡を取りながらトレーニングを続け、アスリートとしてのコンディションは維持した。シーズンオフには、イベントや講習会、学校の授業などに参加しながら、約2週間で200時間という特訓のような講習をハワイで受け、ヨガの指導者資格も取得した。外国人の優秀なコーチを招き、日本人の有望な選手がより良い環境でトレーニングできるようなチーム結成も実現させた。メディアでの解説や、得意のドイツ語を使う仕事にも興味を示す。
竹内 「甲子園でも、東大でも、その目標を実現できたら一番素晴らしいことですけど、全員がその目標を実現できるわけじゃない。逃げ道ではなくて、第2、第3の選択肢を用意しておくことによって、本当にやりたいことを極められるんじゃないかなと思うんです。「メダルが取れなかったら、こっちの道で生きていこう」と、楽に考えられる選手の方が強い。一つのことに没頭しつつも、第2、第3のセカンドキャリアの選択肢を大事にすることで、緊張やプレッシャーから逆に解放されることもあると思います。今の高校生も、視野を広く持ち、一つのことにこだわり過ぎず、頑張ってほしいですね。」