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聖地の空 〜硬式野球部・佐々木啓司監督の思い〜

指揮官は「後輩たちを守ってやってくれ」とつぶやいた

蝉の声が残る2018年8月末。夜景で有名な函館山の麓に位置する称名寺の駐車場に、1台の青い大型バスが停まった。少し大柄な降車客約30人は、新選組副長だった土方歳三の供養碑や、豪商・高田屋嘉兵衛の顕彰碑の横をすり抜け、例年通り、小さな墓石の前に並んだ。

「今年も、空から後輩たちを守ってやってくれ」。

クラーク記念国際高等学校・硬式野球部の佐々木啓司監督は、ナインの列の先頭で掌を合わせながら、心の中でつぶやいた。

鋭角に曲がり落ちるスライダーが、甲子園を引き寄せた

1991年秋の北海道大会。佐々木監督は前任校・駒大岩見沢高校のベンチで、2年ぶり4度目のセンバツ甲子園出場を目指し、采配を振った。決勝戦の相手は苫小牧工業高校。先発したエースが初回に2点の先制を許す、厳しい立ち上がりとなった。

2回裏、無死三塁と追加点を与える可能性が高まったところで、指揮官は本調子にない背番号1をあきらめ、マウンドに2番手の須藤力投手を送り出した。「旧くからの知人に『こういう子(須藤)は、意外と抑えるよ』とアドバイスされたことを思い出してね。序盤だったけれども、切り替えて、流れを引き寄せたかった」。

スリークォーター気味の右腕が投じるスライダーは、ストライクゾーンから右打者のバットが届かない位置まで、グッと鋭角に曲がり落ちた。豪速球こそないが、直球は打者の手元で微妙に変化し、バットの芯を外れた。時折混ぜるナックルも効果的に決まり、苫小牧工業高校打線の勢いが、完全に止まった。

三塁ランナーは釘付け。甲子園が遠のきかねないピンチを、無失点で切り抜けた。望みをつないだチームは、4回に1点を返して1点差に詰め寄ると、7回にも2点を挙げてついに逆転。2回途中から1点も許さず投げ抜いた須藤が胴上げ投手となり、駒大岩見沢高校は翌春のセンバツ甲子園出場を確実にした。「マウンド度胸のある投手だった。天才肌でね。わざわざ函館から『駒大岩見沢に入りたい』って言って来てくれて、甲子園にも連れて行ってもらったんだよね…」(佐々木監督)。

「須藤が死んだ」。まさかの知らせが、大会後に届いた

1992年春のセンバツ甲子園1回戦。須藤の姿は駒大岩見沢高ベンチにあったが、マウンドに立つことはなかった。「なんとかマウンドに上げてやりたい気持ちはあったけど…、やんちゃ坊主的なところがあってね。冬場の練習を見ていて、どうしても不安が消えなかった。もちろん夏があれば、投げさせた」と佐々木監督は当時の決断を振り返る。試合は兵庫代表の育英高に0―8と完敗。その夏は南北海道大会1回戦でライバル北海に1―3と惜敗し、須藤の甲子園出場は夢と消えた。

同じ年の秋。夏の戦いを終えて引退した須藤の後輩たちが、再び北海道大会を勝ち上がり、半年後のセンバツ甲子園出場を手中に収めた。翌春のセンバツ前哨戦ともいうべき同年11月の明治神宮大会(東京)を戦い終えた夜、耳を疑うような知らせが、宿舎に届いた。

「須藤が、死んだ」。

後輩たちの大会遠征中に函館まで短期帰省していた須藤が、食べたものを気管に詰まらせ、命を落としたという。遠征メンバーは、関東の港から直接フェリーで苫小牧に帰る予定を、青森まで東北道を北上して青函連絡船で函館に入るルートに変更。急逝した須藤の遺影に翌年のセンバツでの健闘を誓い、最期の挨拶を交わした。

「今でもね。甲子園で投げさせてやれなかったことは後悔している。本当に申し訳なかった」。甲子園出場13回の名将が、顔をゆがませる。

ポケットに入れた天国への手紙が、ピンチを救った

迎えた1993年春のセンバツ甲子園2回戦。初戦の相手はかつて巨人のエースとして活躍した槙原寛己投手らを輩出した強豪・大府高(愛知)だった。駒大岩見沢高校のエース羽沢正樹は、初回にコントロールを乱し、1死満塁の危機を背負った。長打が出れば大量失点もありうる状況で、佐々木監督はマウンドに伝令を飛ばした。早くも肩で息をする大黒柱に一呼吸与える意味と、もう一つ、〝魔法をかける〟意味があった。

「ズボンのポケットに入れた手紙を見るように」。

伝令は監督からの指示を一言だけ伝え、ベンチに下がった。羽沢はお尻のポケットから取り出した紙に目をやると、1度大きく息を吐き、空を見上げた。

「須藤力殿。君の投げたかったこの広い甲子園で、君の後輩たちが今、全力で戦おうとしている。空の上から見守ってくれ」。

ちょうど1年前の同じ甲子園のベンチで、「須藤、行くぞ」という指揮官の一言を待ち続けた教え子へのメッセージが短く、刻まれていた。

「試合の朝、早く目が覚めて書いたんだけど、『これ、どうしようかな』と考えてね。羽沢に『ポケットに入れておいて、困ったら開けろ』って試合前に渡した。そしたら案の定、いきなりのピンチ。あの手紙がなかったら、1失点で収まったかどうか。須藤が、本当に甲子園の空から見守ってくれたと思ったよ」。(佐々木監督)

初回を羽沢が1失点にしのぐと、駒大岩見沢高は3回に2点を奪って逆転。4回に追いつかれたが、土壇場の9回に勝ち越し点を挙げ、チームは初戦を突破した。続く3回戦で優勝候補の世田谷学園高(東京)、準々決勝では八幡商高(滋賀)を下して準決勝に進出、現在でも佐々木監督のキャリア最高となるベスト4の成績を残したのが、この大会だった。

「学校はかわったけれど、クラークに集まる選手たちは全員が須藤の後輩。『先輩(須藤)が残してくれた〝野球の力〟というものを、後輩も大事にしてくれよ』という思いがあって、今も函館遠征の時には必ず須藤のところに選手を連れて行くんだ。それにしても、あの試合は奇跡みたいな試合だった」。

今年もまた、奇跡を生む季節が、やってくる。(文中敬称略)